安土城を巡る[原風景に想うこと10]焼失しても生き続ける象徴的空間構成の力強さ@石川 利治
小谷城を落とし、近江を手中に納めた信長は、長篠の戦い[1575]で武田勝頼に勝利し、翌年に安土城[1576-1582]の築城を開始します。安土城が築かれた安土山は琵琶湖が入江状になった湖に北側が張り出していて、防御もさることながら見晴らしの良い立地になります。
明治26年の地形図[1893] 現在は入江の埋立てが進み水面は安土山から離れていった
明治時代の古地図に着色をしてみました。赤く色付けしてあるのが山頂付近の城廓で水色が琵琶湖から続く水面です。安土山を囲む様に山の麓まで水面が接していたのがわかります。水面には多くの舟が浮かんでいたとのことなので、安土城を見上げることができたと思われますが、現在は入江部分が埋め立てられており、その様子は伺い知れません。安土山の西側麓から湖面の間には平地がありますが、この辺りが城下町として栄えました。東側の線路が描かれている辺りは街道が通っており、昼も夜も人通りが絶えなかったことが信長公記に記されています。街道を挟んだ山は観音寺城がある繖山(きぬがさやま)になり、安土山と繋がっていたようです。
近江國蒲生郡安土古城図[1687] 山が水面に張り出している様子がわかる
安土城は山城で高石垣を多用した初めての城といわれます。古城図にも山頂の城郭曲輪群が石垣で作られている様子が描かれています。石垣とならんで革新的だったのはその上に天守となる建築物を設けたことです。今では、お城をイメージする時に石垣の上に天守が載っているが当たり前に感じますが、当時の山城には無かったことなのです。
安土城の縄張図 スケール感に違いはあるが古城図が城域の特徴を良く捉えていたことがわかる
滋賀県教育委員会の縄張図で、旧下街道(橙色に着色されている太線)から安土山にむかって道が繋がり石塁のあたりで大手道(黒色の線)になります。この大手道は南北に真直ぐのびており突き当たりで左に折れますが、概ね天守と大手門を繋いだ直線上にあります。この大手道は平成元年から20年かけて行った発掘調査で発見、復元されたもので、幅6~7mの石段で両側に1mの側溝が付き約180mに渡って登りが続くとてつもない普請(土木工事)が行われたのが判ります。
圧倒的なスケールの石段 当時は正面には天守がそびえ立っていた 現在は木々に覆われ鬱蒼としている
安土城の比高は約110mです。主要なポイントでの標高を記して見ると
石段の始まり:90m
石段の折曲部:127m ↑高低差37m
黒金門内曲輪:178m ↑高低差51m
天守台石垣部:198m ↑高低差20m
この直線上の石段折曲部まで:高低差約37m,平面距離が180m勾配は約1/5、11.3度
石段折曲部と黒金門曲輪まで:高低差約51m,平面距離が190m勾配は約1/3.72、15.0度
石段折曲部と天守台石垣まで:高低差約71m,平面距離が260m勾配は約1/3.66、15.3度
となります。これは何を表しているかといいますと、石段の折曲部の上方に幾段も重なる城郭内曲輪の石垣が積み上がる角度が、石段より急になるということで、登ってくる時に進行方向を見上げる時と、必ず天守が視界に入るということです。
石段屈曲部からしばらくは折れ曲りながら登ってゆくことになります。しばらくすると「伝織田信忠邸跡」にたどり着きます。登城路はここから尾根道(縄張図中赤色の道)に繋がるのですが、邸内を横切る際のルートは発掘ではわからなかったらしく、仮の道で繋がります。
改めて道幅がしっかりとした石段になります。ここでも天守に向けて道がつけられており、登りながらその姿が視界に入ったのではないかと思われますが、現在は樹木が茂りその様子をイメージするのは難しかったです。
黒金門に続く石段 石段の先には天守が見えたのではないか・・・・
尾根道の右手前方に見えていた黒金門の石垣が、道が右に曲がることで、石段の左に臨むことになります。石段前方の石垣は低く抑えられ、その先には恐らく天守が見えていたのではないかと想像します。
黒金門周りの石垣は石のサイズが一回り大きくなり、より威圧感を与えられます。登城路のゆったりとしたスケールから、細かく進行方向と高低差が変化する建築的な空間構成が組み込まれて、一気に空気感が変わったのを感じました。ここにどのような黒金門があったのか、とても興味をそそります。
黒金門を抜けると目の前に高さ10前後の高石垣が現れます。黒金門周りで細かく刻まれ、門をくぐるといった上から抑えられる感覚を抜けたところで上方に広がる空間構成が、開放感と改めて土木スケールに変わり大きさから来る威圧感を増幅します。ここでは、高石垣によって天守が再度見えなくなった可能性があります。いくつかの曲輪を経由して改めて間近で目にした時、間近で見上げる天守の高さに圧倒されたのではないでしょうか。
天守の礎石 石が微妙に傾いているらしく、焼失した際に北側に倒壊したことがわかったという
遠方から眺めていた天守に近づくと、贅を尽くして作ったとされるその建築物の豪奢なディテールに驚かされたことでしょう。内部にも様々な芸術的な価値がある品々で構成されていた様で、改めてその技術力の高さに驚かされます。
セビリア万博で展示された天守内部を再現した展示 現在は安土に移築された
伝二の丸跡には、秀吉が1583年に建立した織田信長本廟が残っています。完成からわずか三年で焼失してしまった安土城、魅せるための建築として周辺の大地と一体になって、空間を強い意思と高い技術力で表現した先駆的な試みがあった事を感じずにはいられません。信長の偉大さを改めて感じるとともに、静かに手を合わせました。
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